• 桜皮細工 右近下駄
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  • 会津桐 子供下駄
    価格:¥3,990
  • シコロ市松模様 右近下駄
    価格:¥11,800
  • ミニ一本歯
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下駄

今では、木でできた履物を総称して下駄と呼んでいます。 古くは「足下」と呼んでいました。平安朝初期(西暦800年代)には、足駄と書かれるようになり、江戸時代初期までは、広く使われていました。平安時代末期(西暦1100年代頃)には、すでに塗下駄もあったようで、牛若丸が五条の大橋の上で黒塗りの足駄を履いて弁慶と対峙している絵にもあるように、台も歯も真っ黒に塗ったものが僧兵を中心に広く使用されていました。多くは杉材で作られていて、甲は楕円形で歯は銀杏歯(銀杏の葉のように広がった形)で甲も歯も一つの木材を刳って足駄型に高く作ったものでした。

駒下駄

江戸時代 貞享年間(1684~1688年)馬下駄が現れました。それまで広く使われていた足駄(差し歯の高下駄)とは違い台の下裏の中央を菱形にくりぬいて、四角に三角形の歯をつけたような型に造った、角型の下駄でした。 この下駄で歩行すると馬蹄のような音がするところから馬下駄と呼ばれたそうです。最近でも料亭や旅館などで使われる、数寄屋下駄と同じものです。萬治年間(1658~1661年)から元禄時代(1688~1704年)に馬下駄を駒の爪と呼んだところから駒下駄と呼ばれるようになりました。

羽根虫(現代の二本歯の原型)

文化文政(1804~1830年)から天保(1831~1845年)にかけて羽根虫という男子用の下駄がありました。 桐の柾目や板目(昔は今のように桐の板を薄くすいて経木にして化粧貼りすることができなかったために、目の良い板を貼っていました)でできていて、現代の二本歯との違いは、歯と歯の合間の広いのが多少異なるところです。この頃から男用を大形、女用を相形と呼ぶようになりました。

一本歯下駄

役の行者(山岳修行者)が履き始めたと云われています。山道の上り下りに便利であったと云われていますがこの風習は古く中国にもありました。日本の一本歯下駄は、下駄の台の裏の中央にアリ(溝)をつけ、そのアリへ、厚さ一寸(約3㎝)の朴木の歯を一尺(約30㎝)以上の高さに差し入れたものでした。明治時代には理髪店の小僧さんや料理屋の板場でよく使われていました。古来より今でも祭礼の前駆の猿田彦が履いています。

変わり下駄

文化文政(1804~1830年)江戸の繁盛の絶頂期、遊女の下駄では台の内に足の汚れを拭くために白縮緬の布を入れたものや、白く太い糸を束ねて鼻緒にし、糸の間に珊瑚の珠を入れ赤くチラチラと見えるようにしたり駒下駄の上をべっ甲、廻りを総金蒔絵、台の内にお湯を入れて寒中でも冷たくならないようにしたものもありました。

柾下駄

明治のはじめ頃まで表付き下駄の流行した時代には下駄の側面に柾の通ったものを指して、柾下駄と呼んでいました。それ以降、表付きの下駄より安く経済的で恰好より実用本位に嗜好が移り、じか履き下駄が流行するようになり、台の天に柾の通ったものを柾下駄と呼ぶようになり現代に至っています。大正時代までは男性用だけでしたがそれ以降女性も使うようになりました。今でも舞妓さんの履く甲堀は、横に柾の通ったものを極上品としています。また今では少なくなりましたが表付きの台を作る職人は、横に必ず柾目をとります。柾目の種類は、荒天、四五、六七、八九、十上、十二上、十四上、十六上、十八上、二十上、などと職人は呼んでいます。当店では十二上、以下の柾目には経木を貼っております。

三枚歯下駄(三つ歯下駄)

享保年間(1716~1736年)頃から三枚歯下駄が現れました。その当時の下駄は歯が薄く安定感が悪かったため、差し歯を一枚足して安定感を持たせるためにできました。男女の間で広く使われました。寛保(1741~1744年)から延享(1744~1748年)のころには当初の目的と違って遊女の間で主に使用されるようになりました。台は塗り台と白木台の二種類があって、台には、みご表を鋲打ちしたものでした。二枚歯のものより安定感があり、履きやすかったため、後の花魁道中下駄のもとになりました。この下駄の使用者の範囲は花柳界から一般婦女子の間にまで浸透し、文化文政(1804~1830年)の三枚歯下駄の大流行の元祖となりました。この時代になると差し歯ではなく、一つの材料を刳って造ったものになりました。鼻緒も中歯と後歯の間に横緒を通して挿げていましたが、後に中歯の側面へ鋲で打ちとめるものでした。宝暦(1751~1764年)のころには、全体を黒塗りで黒鼻緒をつけて男でさえ三枚歯を履いていたそうです。

ぽっくり下駄

文化文政(1804~1830年)の頃に現れました。一般子女に使用されました。駒下駄のしんかしたものと云われています。当時ほとんどは、漆塗りで表付きようでした。蒔絵をしたものもありました。現代まで形を変えずにきた下駄です。こっぽりは主に京阪方面の呼び名でした。こっぽり下駄の呼び名は全国でそれぞれで、終わりでは「こっぽ」美濃では「こっぷ」肥前では「こっぷり」鳥取では「こっぽん」越後では「ぽんぽん」下総では「ばっか」青森では「がっぱ」島根では「かっぽ」近江では「こぼぼ」京都では「こぼこぼ」と呼び名は色々です。

吾妻下駄

日和下駄に表を付けたもので寛永年間(1624~1645年)に吉原の遊女「吾妻」が履いたことから吾妻下駄と呼ぶようになったと云われています。吾妻下駄がもっぱら履かれるようになったのは文化文政(1804~1830年)からで江戸末期には流行品として広く一般にも履かれるようになりました。材質は甲は、桐で赤樫の歯を挿し南部表を付けたものが吾妻下駄、南部表のないものを日和下駄といいます。