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雪駄

雪駄が用いられたのは貞享年間(1684~1688年)元禄年間(1688~1704年)からで、それまでは上方製の雪駄が広くもてはやされていましたが江戸の切り廻し雪駄ができて(江戸雪駄)(京木履)と言われるほどになり、ほぼ今日の雪駄の原型となりました。尻金の付いたものを雪駄と区別するようになりました。

尻金を最初に付けたのは大津の革足袋職人が作った石割雪駄が最初だったとあります。草履は踵が破れやすいのでそこに牛革を切って貼りつけた尻切が初めで、そのうちそれが全体に革を貼った雪駄となり日常履きとされるようになり、耐久力の点から今のように尻金が付きました。 雪駄は千利休がそれまでの裏無しの草履だと雪の中で履くと湿ってくるのを嫌い、草履を重ね、裏に革を付けたのが始まりであるという説(三才図会)と当時の茶席では忌む革を利休が付けて履く訳がない、せちだと言うのが正しく、雪駄の文字を当て字に使った(柳亭筆記)、当時の俳諧(紅梅先句)の中にも(せちだ草履)という言葉でしばしば登場しているところから千利休の作ったものではなく(せちだ草履)が始まりであると当時の江戸の文献にも記されているところから諸説紛々としていて判明しません。また竹の皮には自然と般若の文字が侍(はべ)ると言って、笠などには使ったが足に履くものには使わなかった。古くは吉野朝時代(1334~1393年)には、草履に革を付けることを禁じていたとあることから千利休が最初ではないという説が江戸の頃は大勢だったようです。ただ元禄時代初めには尻切れ師と雪駄師と呼ばれる人がいて盛んに作られていたとあります。江戸製の雪駄は上方製の下り雪駄に対して地雪駄と呼ばれていました。江戸時代貞享(1684~1688年)の末頃になると現代の雪駄の原型に近い切り廻しという仕上げ方法が確立され、表には真竹皮を晒し、すこしも黒味のないもので編み、地雪駄や下り雪駄より外見がよく、丈夫にできていたので江戸中を席巻する流行品となったと西鶴の(五人女)や(好色二代男)の一説にも記されています。このように雪駄は尻切れの特徴と竹皮の長所を併用してできたものでした。

この頃からすでにチャラチャラと鳴る雪駄の音が世人に好まれていたそうです。雪駄の革の色も、真竹の晒し皮に少しの黒味のないものになったのもこの時代からです。雪駄のたの字ですが、踏むという字と履物を意味する駄の字がこの頃の文献の中でも使われています。

毛雪駄(踏)

江戸時代、貞享・元禄時代から盛んに用いられた雪駄に江戸風のものと上方風のものと二種類あってどちらも竹皮製の表に革を貼ったものでした。このほかに裏は同じように革を付け、表には毛の付いた獣皮を用い、鼻緒も毛皮そのままを使って作った「毛皮の雪駄」というものがありました。新町の雪駄師が享保の頃から売り出したと書かれていたり、古くは謙信より信長へ贈る書に「毛皮の草履はきて」という一文があります。雪駄の流行から竹皮草履の表に毛皮を付けたもので毛雪駄と呼ばれていました。高級な人の履物ではなく、最初は大人も履いていたようですが、もっぱら子供用として使われていました。

乗り物雪駄

江戸寛文(1661~1673年)頃からあったと云われています。緞子の裂表に裏に革を付けた上物で大名の奥方の履物として使われていた特殊な雪駄がありました。当時としては贅沢な雪駄で特権階級の婦人が使っていました。

贅を尽くした雪駄

江戸、文化・文政の頃の人々は、雪駄に奢りの数々をつくしていました。雪駄の表を籐組にし、廻りを赤銅で縁をとり裏面には、真鍮で牡丹、龍などの象嵌を入れ、舟に乗るとき雪駄を仰向けに脱いで置き、象嵌の美しさを競ったそうです。あまりにも贅沢が過ぎたので土岐の老中・水野忠邦が町奉行・遠山左衛門尉に命じて贅沢な雪駄を大衆が履くことを禁止しました。

江戸の雪駄屋

江戸時代の草履の中で一番隆盛を極め伝統的に用いられたのは、雪駄でした。江戸末期に有名だった江戸照降町の越後屋や、宮田という名店でも「下り雪駄や」の看板をかけていました。この原因は、江戸時代の履物の大半は、上方が生産地であったのと流行の雪駄も下り雪駄が最初であった関係から消費地であった江戸の履物小売店は、店頭に「下り雪駄や」の看板を掲げて顧客を呼ぶ目印にしていました。